こむし  こむさって    なにさ

  初めの「こむし・こむさ」 

  1967年6月、1冊の文集が発行されました。32ページのガリ版(謄写版)刷りで、10人のエッセイや詩、小説が掲載されていました。その赤い表紙に、表題として小さく記されていたのが「こむし・こむさ」でした。

 この文集「こむし・こむさ」に文章を寄せた人は、すべて1964年4月から3年間、都立墨田川高校で学んだ者であり、さらに、全員、演劇部の部員でした。

 「こむし・こむさ」の意味
  「コムシ コムサ」とは、フランス語(http://www.ichikiyo.com/image314.jpg)で「どうにかこうにか」とか「可もなく不可もなく」という意味があるそうです。

 その語感が面白く、演劇部の内部で言い合い、笑いあっていたものです。
 かつての演劇部員達が寄稿した文集の表題として、共通の思い出のある「コムシ コムサ」を持ってきた・・・・というのが「こむし・こむさ」の来歴です。

 演劇グループ「こむし・こむさ」へ
 文集「こむし・こむさ」は1冊で終わらず、1969年3月発行の第9号まで続きました。寄稿する人は、同学年の演劇部員にとどまらず、後輩の部員達や、演劇部員ではなかった人にも広がっていきました。
 そして、この文集「こむし・こむさ」の活動の中から、演劇を創ろうという声が上がり、1968年9月、第1回公演を墨田区の区民会館ホール(現存していません)で行いました。戯曲は三島由紀夫の「邯鄲」でした。
 グループ「こむし・こむさ」の演劇上演は、1971年7・8月の第4回公演まで、年1回のペースで行われました。高校生、大学生、社会人による、4年間の演劇活動でした。
 1968年の流行語は「ノンポリ」「ゲバ棒」、・・・・・1971年のそれは「シラケ」。世の中が、大きく、激しくうねっていた時代でした。
 
 
復活「劇団こむし・こむさ」
・・・それから42年という歳月が流れ、2013年、かつての仲間が集まって、再び演劇を上演しようという話し合いが始まりました。
 当然のことながら、60を過ぎた年齢になって再び演劇を上演しようというのですから、その意味を考えざるを得ませんでした。40数年前の4年間は、「とにかく芝居をしたい」という情熱に駆られていました。そういう情熱がなければ、演劇などを上演することはできませんが、「情熱の発散」で終わってはいけないという思いがありました。
 自分たちが上演しようとする演劇について話し合い、その中から出てきた共通認識は次のようなものでした。
 「戦後すぐに生を受け、昭和、平成と生きてきて、60を越し、残りの生の方が短くなった私たちが、今、このとき、表現したいこと、表現しなければならないこと、表現できること」の演劇化。
 
 
43年ぶりの復活公演を経て

 また、この共通認識を具体化するためには、オリジナルの作品を創り出していくことが必要であると考えました。その趣旨に沿って「右から三つ目のベンチ」が書かれ、最初の本読みがおこなわれたのは、2013年の9月のことでした。

それから約1年後、日暮里のd-倉庫にて、たくさんのお客様にご来場いただき、復活を果たすことができました。以来、年に1回のペースで公演を続けてきました。

新しい共通認識 
共通認識の「60を越し、残りの生の方が短くなった私たち」という文面から、シニアの劇団をめざしているように誤解される恐れがありましたが、劇団こむし・こむさは、年齢を問わず、新しいメンバーや協力してくださる方々の力を得て、これまで活動してきました。

第4回公演を目指す2017年、新しく加わった若いメンバーも交えて話し合いを行い、共通認識を次のように改めることにしました。

「戦後生を受け、昭和、平成と生きてきて、私たちが今、このとき、表現したいこと、表現しなければならないこと、表現できることの演劇化」

若い世代との壁を取り払うために文言を変えましたが、戦前から戦中、戦後と続く時の流れ、世の中の流れの中に身を置いて、演劇を創造しようとする思いは変わりありません。

「私たちが今、このとき、表現したいこと、表現しなければならないこと、表現できること」は、まだまだ残っています。年齢を越えた力と熱を集めて、その演劇化に一つ一つ取り組んでいきたいと考えています。

                                  代表 野村 勇 

 

 

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