民暴哀史
                                    

          
 委員会をサボるというのは、結構、後ろめたいものである。通常の委員会でなく、実行委員会であっても、いや、期限のある実行委員会であればこそ、この後ろめたさは深刻である。悪いことをしているという落ちつかなさ。人を避けたくなり、話題がそちらに行くことをオソレ、できるだけ目立たないようにする。気の小さい私のこと、この後ろめたさは深刻であった。

 だから民暴大会実行委員会をさぼっていた94年中は、どうも落ちつかなかった。1年半も前から準備して何するんや、と自分を励ましたり、94年11月に幕張で開催された日弁連の法律相談事業協議会の担当委員だったのでこれが若干バリアーにはなっていたが、そしてその後の『第2回懇親の夕べ』大ボーリング大会も担当していたので、これらが終わるまでは、まあ、風当たりが弱いことは計算していたが、それでも、当該実行委員会で大きい顔ができないことは、言うまでもない。

 だから、95年に入り、1月の実行委員会に出てからは、言われたことは何でも「はい、はい」といわざるを得ないイエスマンの可哀想な市川委員が誕生していた。

 出席した途端に明かされたのが、白井先生の下で大会企画を担当するということであった。これが何を意味しているのかは当初よく分からなかったが、まもなく、セレモニーを除いた大会の中身を、1から10まで作ることと聞いて唖然とした。しかも中身はなんとなくお任せのような雰囲気で、特に指定や制限はない。考えろという。何をどう考えたらいいんだ。しかし拒否できそうもない。それどころか、半年遅れでやって来た私に対し、すぐさま毎月の実行委員会で、どこまで進んでいるか、何をしようとしているのかの報告を求めてくる。ひどいことになった。

 こういうとき、白井先生は全然ビクつかない。鷹揚に構え、ニッコリ笑ってバッサリ斬る。

 とりあえず前年の新潟大会は見学して来ていたし、副会長時代に宇都宮大会も見て来ていたので、最悪、真似程度はできる心積もりはあった。しかし、真似に甘んじないのが最近の千葉であったし、真似ではつまらないという気持ちもあった。しかもこういう大風呂敷は白井先生ともども常々得意とする所である。・・・ここに落とし穴があった。

 3月の実行委員会で、苦し紛れにでっちあげた《スライドと劇、歌の入ったモノ》のレジュメを提出し、「今までとは違うぞ」という格好を付けて、当面を乗り切った。

 《これまでの民暴の流れを総括し、日弁連や警察、そして各地の住民の運動を統一した形で紹介する。今後の運動の方向を示す》などというもって回ったことまで口にしたのである。「確かにそれができれば好いだろうが・・・」という大風呂敷を広げた訳であるが、本来はここで、本物の《民暴委員》を中心として、危機感をもつべきであった。

 私は民暴委員になったこともなければ、民暴事件を手掛けたこともない。副会長時代に民暴委員会を担当し、民暴の被害に遭いつつあった会員からの執行部への報告に耳を傾けていた程度であった。「暴力団は許せない」とか「民暴撲滅」の気持ちはもっていたつもりだが、しかし、民暴問題を総括すべき立場にないのはもちろん、その能力もない。まして日弁連の大会でのそれである。真っ先に民暴委員がこの企画に張り付き、1から10まで中身のチェックに入るのが常道であろう。そうすれば私の担当は周辺の簡単な演出程度で、責任も負担もグッと軽くなる。

 ところが、そうはならなかった。

 原因はいまだもって不明であるが、「大風呂敷の白井・市川が何をするかを見てやろう」という、冷たい視線があったようにも思えない。多分、同時開催の「協議会の準備こそ重要」と考え、大会にまで手が回らなかったのか、「何をしようとしているのかよく分からないので、下手に手を出せない」と思っていたのか、なんとなく時間が過ぎてしまっただけなのか・・・・。

 《白井・市川の気迫に押された》とかいうことはほとんど考えられないので、まあ前記のいずれかだったのであろう。

 この間に、これまた苦し紛れで講談の宝井琴梅師匠を思い出し、提案。宝井琴梅師匠にご快諾いただき、大会企画の3分の1は確保。

 残りの3分の1はクイズの時間とし、宮下さんに投げてしまえば、こちらはそれで終わりである(困ったときの宮下頼み。あんたはエライ)。

 残ったのはやっぱりスライド関係である。

 白井先生との間で、スライドの全体を市川が担当、手口紹介の寸劇を白井先生が担当という分担合意が成立。5月ころのことかな。6月ころの打ち合わせの際、白井先生は「こんなものひとつ5分でできちゃう」と豪語。実際、寸劇3本のシナリオができてしまっていた。

 一方、当初計画ではとっくに完成しているはずのスライドのシナリオは、遅々として進んでいなかった。

 スライドは、理屈や数字だけを紹介してもおもしろくならない。実態に迫り、各地の事件や闘いを共有し、私たちの問題として、どれだけ等身大で民暴事件・暴力団問題を表現できるかが鍵だと思っていた。

 日弁連には、『民暴の鷹』2巻という宝があった。民暴の手口と対処法を分かりやすく描いている。Q&Aや暴対法解説本も出ていた。委員会の歩みを紹介する本もあった。同様の本が、日弁連以外からも出されていた。数年度分の警察白書もそれなりに参考になった。しかし、全国の民暴の流れや、各地での運動や闘い、事件等を、俯瞰して総括するというものは、書物の形では出ていなかったのである。

 最も知りたかった各種事件、闘いについては、どこにもまとまった形では紹介されていない。大会に来ていただけるという堀江ひとみさんのことを紹介する本もない。つまり、私たちがスライドで取り上げようとしていることに対応する資料はほとんどない状態であった。

 だから、スライド作りは、資料集めからはじめざるを得なかったのである。

                     ◇

 どういう事件が起こり、どこでどういう闘いがあったのか。これらと弁護士会の運動はどう関係していたのか、警察はどう動いて来たのか。暴力団の実態は何で、どのように変化しつつあるのか。これらの資料をまず、集めなければならない。

 ここで飛び付いたのが新聞記事データベースである。暴力団関係の記事、民暴関係の記事、暴対法関係の記事を、新聞記事データベースから検索収集するのである。これによって、基礎的なデータが入手できる。

 このデータベースは、「ある言葉の含まれた記事」という探し方ができるので(この「ある言葉」をキーワードという)、これに関する一切を調べたいという時に超便利である。

 新聞記事データベースは、1985年1月1日以降、今日に至るまでのものが構築されている。なぜかほとんどの新聞がこの85年を境に一斉に記事をデータベース化させている。つまり10年分の世の中の動きが把握出来ることになるのである。

 これらのデータベースは、私の加入しているニフティサーブというパソコン通信BBSを経由して、オンラインで利用することが出来る。つまり、事務所や自宅から、パソコンやワープロを使い、電話回線経由でデータベースを操る訳である。朝日、毎日、読売はもちろん、共同通信、サンケイ、日経、また各地の地方紙も利用できる。

 そこで、最初に《民暴》という言葉で調べた。使ったのは朝日新聞記事データベース。それぞれの新聞で記事の取り上げ方や得意分野などが違うので、ものによってはデータベースを選ばなければならないが、まあ、とりあえずということで、朝日新聞にした。各地での民暴大会の記事や民暴相談会実施の記事、企業の民暴対策研修会の記事等が集まった。これだけでも数百あった。民暴事件に対する各地の取り組みが分かり、暴対法を使った動きもある程度分かる。しかし、各地で起こっている事件や運動については、このキーワードでは出て来ない。

 そこで次に《暴力団》というキーワードを使用する。ところがこれだと数千件もの記事がピックアップされてしまい、どうにも収拾がつかなくなってしまう。世の中で、いかに暴力団が悪いことをし、事件を起こし、新聞を賑わしているかが如実に分かる。

 まあ、とりあえず表題だけでも取り出してみるかとやり始めたが、電話回線を通じて送って来るのに、延々と時間が掛かる。ようやく取ってはみたものの、これを見やすいように紙に印刷しようとすると、これがさらに何倍も時間がかかる(連続紙を使用したプリンターが1時間以上働きっぱなしになったので、途中でやめた)。

 そこで、さらに絞りをかける。暴力団抗争事件をピックアップしようと「抗争」で絞ったり、「銃撃」を使ったり、住民運動に関連させようと「住民」で絞ったり、案外「賠償」当たりで引っ掛かるのではないかとやってみたり、あんまり絞りすぎると肝心なものがこぼれてしまうので、改めて対象を拡大したりと、首をひねりながらのデータベースとの格闘である。千葉で取り組んでいる組長訴訟も重要なテーマなので、この関係でもいろいろと調べてみる。

 その他、暴力団の手口についても、いろいろな報道がなされていた。「裁判所」などと入れたり、「判決」、あるいは「決定」などと入れることによって、裁判所を舞台にこれと闘った人々の闘いも若干フォローできるようになる。特に民暴大会の企画なので、各地の弁護士が何をして来たのかは、ぜひ紹介したい気持ちがあった。

 それに、実際、被害にあっている住民や企業など、国民のレベルでの被害の実態と同時に、それらの被害に遭って、逆にどんな対応をしているのか、逆襲をしているのか−−−これらは、どのような取り組みであっても、できるだけ多く拾いたかった。このような草の根の取り組みが、今日の大きな民暴撲滅の運動につながって行ったものであるし、先覚者の大変な苦労を知ることが、我々の励みにもなると思ったのだ。

 このデータベースの使用料は、パソコンネットNIFTY Serveの料金(1分10円)の外に、1分間80円のデータベース利用料金がかかる。あまりもたもたしていると、すぐに課金が莫大になってしまうので(ちなみに、データベースを利用するときは、事務所のIDでアクセスするので、課金は全て事務所に行く)、方針がにわかに定まらないときは、一旦データベースを切断してもう1度アクセスしたりと、いろいろ、ワザを使わざるを得ない。

 このようにして、各地での暴力団の犯罪行為や民暴行為の概略、住民や企業などの闘い、裁判所を舞台とした取り組みなどを知ることができたし、部分的にはかなり突っ込んだ記述も手にすることが出来た。

 もとより、新聞記事は、記者の責任(新聞社の責任)で書かれているが、それが真実であるかどうかの保証はない。しかし、同じ内容を幾つもの記事で確認できれば、ほぼ、一般的な信憑性は確保できるだろうということで、これらの資料を利用した(本来であれば、ひとつひとつの裏を取らなければならないとは思うが)。

 その結果、これまで知らなかった日弁連民暴大会の流れや、どの大会でどのような取り組みがあったのか、堀江ひとみさんの闘いや、イタリアからジョバンナ・テッラノウバさんを民暴大会に招いたこと、有名な浜松の闘いの外にも、京都での闘いも知ったし(本が出ていることも知った)、伊丹監督襲撃事件や、監督が襲撃直後に大阪民暴大会で講演したことなど、その他その他、もろもろの肉付けデータを入手した。

 企業襲撃事件などは、新聞記事がなければ、全く、アウトラインさえ掴めなかったと思われる。しかも、スライド上で暴力団の凶悪性や、最近の傾向を示す資料とする以上、事件の把握だけではなく、その事件が暴力団によるものだというところまで特定しなければ、できなければ、民暴大会で紹介する意味がない。だから、その後の犯人逮捕の記事や、起訴、刑事裁判の記事まできちんとフォローしていく必要がある。一般には、当然に裁判の記事も引き続き出ていそうなものだが、これが案外、尻切れトンボだったりする。それを他の記事からの推測などで詰めたり、実際に犯人が上がっていないものについては、「・・と見られている」という記事をそのま使わせてもらったりした。

 このように、新聞記事は、シナリオ作りにとって、誠に貴重なデータの宝庫だったのである。

 新聞記事は、しかし、シナリオ作りのデータとしての意味をもつだけではない。事件を報じる記事は、スライド映写の材料にもなる。細かい文字までは読んでもらえないが、見出しなどは、スライドとして上映すれば、それなりのインパクトを持つ。そういう意味でも、的確な見出しのついた記事を捜し出す作業は重要であった。

 スライドにするためには、現物の新聞記事の当該部分を切り取ったり重ねたりして、映写に耐え得る内容に仕上げて行く。そのためには、記事自体、新聞自体を入手しなければならない。

 しかし、パソコン通信経由のデータベースは、内容を電話回線で送って来るだけであり、現物を送って来ない。記事の中身はとれても、写真付きの、独特のレイアウトで掲載されているそのものスバリが出てくるものではない(今後、ウインドウズに対応して、記事の状態のままが絵のようにデータベース化されるようなものが出てくることは考えられるかもしれないが)。

 したがって、データベースから取り出した記事の内、現物が欲しいものをピックアップし、年月日等を頼りに、ストックしてある所から借りるなりもらうなりして来ないと行けない。

 まずは、県立図書館である。しかし、ここには、意外なほど新聞はない。ものすごい量がたまってしまうのであるから仕方ないかもしれないが。そこで、次は国会図書館である。しかし、これは自分で行かなくてはならないだけでなく、著作権の関係で1人が1日にコピーできる数が限られている。かなりの資料を取ることとしていたため、10人近くの人を何日間か動員しなければならないような感じである。実際にやり始めてみたが、極めて効率が悪く事務局にも不評であった。そこで、仕方なく、新聞社に直接掛け合ってもらった。事情を話すと、案外、好意的に対応していただけた。しかし、ここで新たな問題に遭遇する。記事が全部、東京本社にある訳ではないというのだ。地方の支局の記事は、その支局などが独自に保管しているという。そのため、それぞれの記事毎に、支局などにもお願いをすることになった。当事務所事務局が、かなり手間暇をかけて、記事の現物を100近くは集めたと思う。

 しかし、一方でスライドは写真が命である。記事は記事としてのインパクトはあるが、所詮、百聞は一見に如かず。写真の持つ迫力には及ばない。第一、記事ばかりではくたびれるし、飽きる。そこで何としても、事件の報道写真が欲しくなる。写真のないスライドなんて、誰も見向きもしてくれない。

 しかし、写真を得るには、今度は、雑誌にかなうものはない。特に、最近の写真週刊誌の質量は、時事問題(民暴はまさに時事問題だ)には欠かせない戦力だ。これをどう捜し出すか。

 そこで再び、パソコン通信である。

 今度は雑誌のデータベースにつないでみる。雑誌のデータベースといってもいろいろある。AERAはそれだけの特別なデータベースがあるが、それ以外にも海外の雑誌記事を含めた1300もの雑誌記事をデータベース化した「雑誌記事情報」(81年からの記事約115万件を収録)というデータベースがある。但、これで分かるのは記事の所在情報であり、記事の全文は入手できない。検索のために使用するという方法である。

 目指すは写真なので、写真週刊誌のフォーカス・フライデー、フラッシュなどを中心として、関連の記事を探す。もちろんそれだけでなく、週刊読売や、週刊ポスト、サンデー毎日や週刊文春等々の一般雑誌も、写真週刊誌にないものは補充的に検索する・・・。

 暴力団関係の記事は雑誌にもそれなりに載っていた。沖縄の高校生射殺現場の写真や、京都の警官射殺、富士フィルム専務の写真など、その他その他が検索された。

 このようにして検索したデータについては、新聞記事と同様、現物を入手しなければならない。しかし、ここでもいろいろ躓きがあった。まず図書館ではやはり入手困難であった。過去分について揃っていないことと、量が多すぎて貸し出し条件をクリアできない。

 そこで雑誌社に直接交渉することになるが、フォーカスは、なんと《写真1枚について使用料1万円》だなどという。この交渉は当事務所の田久保弁護士が一手にやってくれたのだが、2人して腰を抜かして、大いに驚ろきまくった。もちろんこれは即座に断念した。1番親切だったのはフライデー。既にバックナンバーは資料としての1冊以外は破棄してしまっているので貸し出せないが、その代わりに、必要な所を雑誌社の方で撮影した上でネガとポジの両方を送ってくれるという。しかも、その費用も手数料も要らないと言ってくれたのだ。フォーカスで驚いていたが、こっちはまた違った意味で驚いた。同じ写真週刊誌といってもこれだけの違いがある。この出来事以降、フライデーの定期購読をしようかと思った程だ(その後、ほとぼりが冷めるのと一緒にこのことは忘れてしまったが、この原稿書きで思い出した。ぜひ、定期購読を決行しよう!)。

 このようにして、各事件の貴重な写真が手元に揃ってきた。

 これらによって、スライド資料のアウトラインは、ほぼ整ったといって良いだろう。

 しかし、これらは全体の流れを示すための資料でしかない。各地での取り組み、闘い、運動、これらと結び付いた弁護士や弁護士会の取り組み、警察との連携態勢の推移を具体的に示し、これらによって暴力団が追い詰められつつあること、暴力団との闘いに必ず勝利することができるとの展望を観客に納得させたい。そのためには、マスメディアのレベルでなく、個々の国民のレベル、ひとりひとりの人々の等身大のレベルにまで降りて来た突っ込みが必要である。千葉協議会のテーマである組長訴訟という画期的な取り組みについても、きちんと位置付けられなければならない。

 これらは各地の闘いの生の資料をお借りするしかないのだ。

 言うまでもなく、これらについては、各地の弁護団に多大なご協力をいただいた。特に浜松の弁護団、京都の弁護団、栃木の弁護団には、お忙しい中、短時間の内に、多数の貴重な資料をお借りすることができた。また、本番に出演いただいた尼崎の堀江ひとみさんと、この闘いを支えられてきた弁護団の垣添先生には、わざわざ遠路千葉まで、それも1度ならずお越しいただいて、お話しを伺ったり資料をお借りすることができた。

 「やはり、実際に暴力団と切りあいをした人達の迫力はスゴイ!」

 これらの方々からご提供いただいた資料を手にして、スライド企画の成功を確信したのであった。

 閑話休題。

 おまけ的に言えば、4月ころだったか、「ミュージカル風に仕立てる」とか「民暴の歌を入れる」などと、実行委員会での報告で苦し紛れに口走ってしまったツケが回り、9月ころからは、更に歌作りが加わった。

 歌を歌える出演者も必要ということで、スライドの準備と併行して地元の千葉合唱団に、歌とエンディングの朗読劇への出演依頼を行なった。千葉合唱団は快く引き受けてくれたが、「ところで、シナリオと歌は?」という質問に対して、「今作っているので」という回答しかできなかったのは、我ながら極めて情けなかった。

 もうひとつのおまけは、修習生の出演。これも9月22日の修習旅行のカラオケタイムで修習生の素晴らしい歌声を聞かされる内に、「これだ!」ということで、決めてしまった。実際、エンディングでの修習生の出演は、盛り上がりの重要なファクターになったと思っている。修習生諸君、御苦労様、そして、ありがとう!

 しかし、この歌作りが結構やっかいだった。まあ、つまらない歌でも、一応、歌はできる。問題は、バックミュージックである。ミュージカルならオーケストラが舞台下に入るところである。いくらご愛嬌とは言っても、音楽がなければ盛り上がりは期待できない。このバックをどうするか。ここは再びパソコンしかない。パソコンで音楽を奏でたり作曲するときに使うソフトはもっていたが、メロディーをアレンジする機能がない。そこでパソコン雑誌をあれこれ見ながら、1番使えそうなアレンジソフトを買ってきた。10月半ばのことである。そしてマニュアルを必死に眺めながら作った歌のアレンジをさせる。しかし結論から言うと、このアレンジの結果は、極めて不満足なものであった。仕方ないので、《美しい音楽の調べ》はきっぱりと諦め、《歌のテンポを確保し、音程を導く》程度の水準にすることにアッケなく変更。不出来を承知で、パソコンに向かい、自分でこつこつと伴奏を作った。その結果が例の歌である。

 拙作の歌いにくい歌を、少ない練習時間にもかかわらず覚え、心をこめて熱唱してくださった千葉合唱団と修習生、出演者の皆さんに心から感謝する次第である。

 このようにして、すっもんだのスライド作りが終了した。当然、無事終了した、と言いたいところだが、しかし、最後の最後に落とし穴が待っていた。大会予算に、大赤字が出てしまったというのだ。その額もうん百万円と、半端ではない。こりゃあ大変だと、のんびり屋の私でも思わずにはいられないが、どういう訳か、その槍玉の筆頭にスライド関係費用が掲載されたのである。見れば、赤字の半分前後が、スライド関係費用で占められている。本番直前の実行委員会。何かしら、被告人席に座らされたような、いやな気分である。直接、咎めてはいないというものの、どう見ても褒めているとは言いがたい。

 私は大いに慌てた。ような気がした。というよりも、慌てるべきなんだろうなあと、思った。

 しかし同時に、一方で極めて冷めた目で、事態を見ている自分がいることにも気づいていた。冷めたというよりも、この問題をどう解決しようかとか、原因について釈明しようとかいう、エネルギー自体が沸いて来ないのだ。

 スライド作りについて、いわば全てを、事実上1委員に任せた実行委員会に対する感慨があったし、あまたの実行委員によって構成されていた割には、予算の立て方を含めお世辞にも効率がよかったとは言えない実行委員会の態勢についての意見があったし、何よりも、もともとスライドについては予算が0円であった(!)という、信じられない予算配分のもとでは、額はともかく、赤字は当たり前だったのである。

 まあ、その後、いざ大会の企画をご覧いただいた後では、「あれなら仕方ない」、などの慰めの言葉もいただいたし、常議員会の了解もいただき、何とかことなきを得たが、しかし、あれは一体何だったのだろうという気持ちは如何ともしがたい。

 本来であれば、予算についても、スライド作りのスタッフのプロの人との打ち合わせの上で、時々刻々と、予算要求をくりかえすべきだったかもしれない。スライドの枚数や、演出が、集まって来た写真如何でどんどん変化せざるを得ないスライド作りの現場の実情があったとしても、またこれによって収集写真の不足を補うためのマンガやイラスト、作図、賃借写真などの外注分の質量が変化する、したがってその費用がさまざまに変動する宿命があったとしても、その時々での、現状と総体予測は全く不可能という訳ではなかったとも思えるからである。

 プロのスタッフの方々から、その都度、不透明ながらも一応の費用予測を出していただけば、それはそれで不可能ではなかったろう。その点は、反省材料だったかもしれない。

 しかしそれは、必死にスライドの材料集めをし、演出を整え、出演者との打ち合わせに最後の追い込みをかけている作業現場では、極めて繁雑な余分な仕事と感じざるを得なかった。しかも、スライド完成の最終段階でないと正確な概算の算出自体が不可能であるとのスライド作りの宿命に照らすと、要求自体が、極めて困難なものと感じずにはいられなかったのだ。本来であれば、これを予算との関係できちんと管理(費用管理・支出管理)する部署があってしかるべきである。それは当然、プロデューサーの仕事ということになる。

 プロデューサーは、中身作り自体からは1歩離れ、ディレクターやキャスト・スタッフの仕事を、予算や人脈その他もろもろの面で支えるのである。今回の企画で言えば、スライド企画製作費の概算と、資料収集の変遷による今後の費用推移について、中身担当の企画委員会及びバックアップのプロとの密接な連絡によってこれを割り出し、場合によっては中身の作り方についてもブレーキをかけたり、代替手段を提案したりする等の作業を行なうのである。しかし、今回は、初めてのプロの応援で勝手が分からないこと、どの程度の費用をかければどの程度の水準になるのかということも全く手探りで、進んでチェックしようという態勢も能力もほとんどなかった。

 そういう意味では、今回は、プロデュース部門が弱体であったと言わざるを得ないのである(「それも企画の仕事だ」と言われれば、返す言葉もありませんが)。

蛇足。

 この経験以降、スライド作りについては、「赤字にするなよ」という揶揄が付きまとうようになった。

 民暴大会から年が明けた、96年3月の第18回市民講座。オウム真理教の弁護を巡って、大槻脚本が《刑事弁護とは何か》を正面から取り上げた。この演出の一環としてスライドを使うことになったが、ここでのキーワードはやはり「赤字」であった。民暴大会の決算を、ようやく常議員会で通したばかりの執行部にとっては、揶揄どころか、結構マジだったに違いない。そこで今度は素人が素人のまま、ほとんど予算をかけずにスライドを作った。かかったのはスライド用フィルムが3本、約3、000円。これを現像してコマにしてもらう費用がほぼ同額だったか。スライド映写機は当事務所所蔵のものを使い、資料集めは足で稼ぎ、あるものをフル回転させ、全てケチケチで1貫した。

 出来はどうだったか。

 せめて、スライドの映写機だけは、大型の光量の豊かなものにしたかったなあと、講座後、そっとスライドのカタログを集めはじめた、懲りない私ではある。


千葉県弁護士会会報『槇』96年第2号所収


注:パソコン通信はインターネットが普及する以前に使われていたコンピュータネットワークで、サーバーコンピュータにたくさんの会員コンピュータがぶら下がる形の、放射状のシステムでした。当然、会員制でした。この記事が書かれた96年2月は、インターネットが爆発的に普及する正に直前の時代でした(市川のホームページも同年12月の開設です)。新聞記事データベースなどは、現在ではインターネット経由で利用することができ、格段に便利になっています。